田月仙(チョン・ウォルソン) 日本・韓国・北朝鮮 歌でつないだ30年〉

 

〈日本・韓国・北朝鮮 歌でつないだ30年
これからも「架け橋」であり続けたい

親しみと憎しみの日韓・日朝・南北

今年、韓国高裁は新日鉄住金や三菱重工に、戦前に徴用された韓国人労働者への賠償金支払い命令の判決を出した。日韓の賠償請求権は、一九六五年の日韓国交正常化で解決済みとする日本政府は国際司法裁に提訴する姿勢を見せているという。これだけではなく従軍慰安婦問題や竹島問題、さらには世界遺産登録にいたるまで「日韓関係」は混迷を続けている。一方、「日朝関係」を見ると日本人拉致問題に見られるように対話の糸口さえ見えない。さらに「南北関係」は離散家族の再会事業延期に見られるように泥沼化しそうである。要するに、「三国」の関係は最悪な状態だと言える。
しかし、日本と朝鮮半島の関係がたびたび嫌悪になるのは、いまに始まったことではない。私は在日コリアンのオペラ歌手として、今年デビュー三〇年を迎えた。この三〇年だけを見ても日本と朝鮮半島は「親しみ」と「憎しみ」のあいだを振り子のように揺れ続けた。それにともなって私の歌手人生も揺り動かされた。
国家と国家に軋轢が生じると、個人はそこに生じる巨大な波に翻弄される。私は三つの国の狭間で生きてきた在日コリアンの歌手として、大きな波に幾度となく遭遇した。絶望に打ちのめした荒波、希望を持たせてくれた穏やかな波。それらの波を「歌」という名の船で乗り越えてきた。

1983 東京 初リサイタル

 私は幼い頃から歌や踊りが好きだった。朝鮮学校に通ってからも、子役として、芝居の舞台に立つことが多く、また子どものころからピアノを続けてきたこともあり、将来は芸術家になることしか考えられなくなった。
そんな私が、はじめて在日コリアンであることを意識させられた出来事が、高校三年の受験シーズンに起こった。目指していた音楽大学に一人で願書を出しにいくと、「あなたには受験資格はない」と門前払いを受けたのである。朝鮮学校に通っていたとはいえ、日本で生まれ育ち、日本から出たこともないし、逆に韓国や北朝鮮には行ったことすらなかった。それなのに……と激しいショックを受けた。試験すら受けられないのなら、この国でどうやって生きていけばいいのか、途方に暮れてしまった。しかし、そのままあきらめるわけにはいかない。日本全国の音大に受験資格について問い合わせ、桐朋学園大学が、願書を受け付けてくれることがわかった。このチャンスを逃してはならない。それからは受験のため猛勉強し、無事試験に合格、入学が叶った。一九七六年の春のことだった。しかしいまでも願書を突き返されたときの絶望的な気持ちは忘れることができない。ちなみに当時私の周囲で朝鮮半島に関心がある日本人は本当に少なく、韓国と中国の区別がつかない人もいた。少し関心を持っていそうな日本人にとっても、韓国は朴正煕大統領の「軍事独裁国家」という悪いイメージがあり、北朝鮮は発展していく社会主義国家というイメージが残っていたと記憶する。文字通り朝鮮半島は「近くて遠い国」だった。
 大学を卒業した私は、プロの声楽家を目指すため二期会の試験を受け合格し、オペラを専門に学んでいった。二期会は優秀な人ばかりで、国籍や政治的なことに惑わされることもなく、オペラに没頭することができた。しかし、音楽だけに専念できる日本の友人たちに囲まれながら、私は心の奥底に、芸術の力で国境や民族の違いを越えていきたい、という強い思いを持つようにもなっていった。
 そういう内に秘めた思いとは別に、実際に大学でも二期会でも「チョン・ウォルソン」という本名で通したため、良くも悪くも目立ったようだ。褒め言葉はいつも、「日本人にはないものをもっている」(笑)。とはいえ、才能があればそのまま認めてもらえる、差別のない実力の世界に入れたことは幸せなことだった。
一九八三年には、作家の梁石日さん、ドイツ文学者の池田信雄さんと池田香代子さんたちのバックアップを受けて、初のリサイタルを開催。このときオペラアリアと共に、日本の観客に韓国や北朝鮮の歌を披露した。こんなにいい歌が多いのかと、日本人の聴衆は驚いたようだ。評論家からも「韓国朝鮮歌曲がオペラアリアと同じレベルで紹介されるのは嚆矢とするのではあるまいか」という高評価もいただいた。その後も私はリサイタルではプログラムに必ずコリアの歌を入れるようになった。
一方、巷でもようやく韓国の歌が流れるようになっていた。あの「釜山港へ帰れ」だ。一九八八年のソウルオリンピック開催も決まり、韓国ブームが起き始めていた。逆にこの年は北朝鮮の工作員が韓国大統領暗殺を画策したとされるテロ(ラングーン事件)が起こった年で、北朝鮮について「なんとなく怖い」と感じる日本人が増えるきっかけになったともいわれる。受験の年からわずか七年で、日本人の両国に対するイメージが変わりはじめていた。
しかし私にとっては「北も南もいずれも祖国」だった。両親とも南の出身だが、元々は朝鮮半島は一つだったからだ。そして日本のリサイタルで朝鮮半島の歌が好意を持って受け入れられたこともあり、.朝鮮半島の北と南の両方に行ってみたい、それも自分の歌を持って海峡を渡りたい、という気持ちを膨らませていた。

1985 平壌 金日成主席の前で

デビュー二年後の一九八五年のある日、北朝鮮から招待状が届いた。「世界音楽祭」を平壌で開くので、そこに私を呼びたいというのである。
一度はその地を訪れ舞台に立ちたいと思い続けた朝鮮半島。
しかし、私には行かなければならないもう一つの理由があった。生き別れになり会うこともできない四人の兄が北朝鮮にいたからだ。兄たちは、一九五九年から始まった帰還事業で日本から北朝鮮に船で渡り、その後全員が強制収容所に入れられ、すでに次男は亡くなっていた。兄たちが北朝鮮に渡ったとき私は二歳で、何の記憶もないのだが、一九八〇年に北朝鮮を訪問した母は兄たちが置かれた境遇を知ると、帰国後ショックで倒れてしまった。母の絶望を目の当たりにしていた私は、兄に会わないといけない、そう決心し、北朝鮮で歌うことを決めた。もちろん、芸術家として、世界の音楽家と共演したいという気持ちも強かった。
四月、朝鮮民航機で北朝鮮の空港に降り立った。滞在は平譲の高級ホテル。一見VIP待遇だが、決められた場所以外は行くことも見ることできない。兄たちに会いたいという申請を出してはいたが、どうなるかまったくわからない。不安が募る中、特別公演の日・四月一五日がやってきた。
各国の芸術家が歌や演奏などを披露し、ついに私の出番が回ってきた。「女性高音独唱 田月仙」というアナウンスで舞台中央に進み、革命歌劇「血の海」の前奏が始まった。向かいの最前列に座っているのは、当時の国家主席、金日成。私は複雑な思いを封印し、全身全霊で歌を歌った。歌い終わると金日成主席が満足そうに拍手をする姿が見えた。
 数日後、私の泊まっているホテルに北朝鮮の関係者がやってきて、兄たちが来ており、面会できるという。部屋を飛び出して廊下を走った。三人の兄が廊下の隅で待っているのが見えた。最初はお互いにまったく言葉が出ず、見つめ合うだけだったが、落ち着くにつれ、朝鮮語でぽつりぽつりと話しだし、そのあとは日本語になった。日本を離れてからあれだけ時間が経っているのに、流ちょうな日本語だった。しかしそのピリピリした様子からは、この国で四六時中緊張を強いられて暮らしていることが伝わってきた。
初めての北朝鮮。この国ではまだ朝鮮戦争は終わっていないのだと痛感させられた。日本はもちろん、韓国も戦争の後遺症から立ち直り、発展を遂げてきたが、北はいまだにいつ戦争がまた始まるか、と国全体が緊張状態にある。兄たちとの対面を通して、そのことが強く印象つけられた。
私には日本のこと、母のこと、自分のことを話す以外に、兄たちにしてあげられることがない。食事をしたり、たわいもない話をするうちに、やがて別れのときが来た。兄たちとはそれ以来、一度も会っていない。
しかしこの時、私の心には生涯忘れることの出来ない生木を引き裂くような分断の痛みが深く刻まれた。初めての北朝鮮は私にとって幻の祖国だった。

1994 ソウル 初めての韓国

北朝鮮での公演から九年後の一九九四年、私はようやく韓国で歌うことが決まった。戦前、戦争のため15才で日本に連れてこられた父は、両親の死に目にもあえず、祖国を捨ててしまったという思いがあったのか、私たちに故郷のことはほとんど話してくれなかった。私はそれなら自分の目で故郷を見たい、と思った。
私は韓国を訪れる前年に「韓国国籍」を取得した。それまでは日本政府が在日に与えた便宜上の籍「朝鮮籍」だった。これは国籍ではなく、パスポートも持てないため外国に行くこともできない。オペラ歌手としては致命的なことである。なにしろ本場のイタリアを訪れることさえ、出来ないのだから。
韓国に到着すると取材責めにあった。新聞やテレビでは「北朝鮮国籍から韓国国籍へ転向」といった取り上げ方をされた。いくら、「朝鮮籍は北朝鮮国籍ではない」と説明しても、韓国マスコミの「誤報」は続いた。
この年は、北朝鮮の核開発が問題となり、それに関連して北の高官が、「ソウルは火の海になるだろう」と発言するなど南北関係が険悪になった時期だったので、私の韓国籍取得は、在日コリアン初のオペラ主演と併せ、マスコミの恰好の話題となったのだと思う。
そんな騒動はあったが、ソウルのオペラハウスでの「カルメン」の主役を無事に務めることができた。
北と南、分断された祖国の両側で歌うことを自分としてはけじめと考えてきたが、その結果、複雑な気持ちが芽生えてきた。それは、いかに祖国だと思ったところで、自分は朝鮮半島の人間とも違う「在日コリアン」だということだった。
日本に帰国後、私はソウルで手に入れたカセットテープに入っていた一曲の歌『高麗山河わが愛』に心を奪われた。その歌詞は「南であれ 北であれ 東や西 いずこに住もうと同じ兄弟ではないか」というものだった。直感的にこれは私が歌うべき歌だと思った。私はどのステージでもこの歌を歌い続けた。この歌の作者は在米コリアンのノグァンウク氏であり、彼もまた、祖国を遠く離れていても南北分断の現実に深い思いを寄せていた。
一九九六年、私はこの歌を持って再び韓国を訪れ、韓国版紅白歌合戦とも言えるKBS「開かれた音楽会」に出演。その後もたびたび韓国に招かれ、幾度となく海峡を越えた。と同時に、自らのアイデンティティへの自信が強まっていった。つまり「日本でも朝鮮半島でも異邦人である私」から「日本も朝鮮半島もいずれもが故郷である私」へと転換していったのだ。

1998 ソウル 許可されなかった日本の歌

一九九八年十月、東京都は韓国ソウル特別区と姉妹都市提携一〇周年を迎えた。記念行事に、東京都の親善大使として私に東京とソウルで日本と韓国の歌を歌ってほしいという依頼が来た。日本と韓国の両方を故郷と考えている私にとって、願ってもない申し出だった。韓国の歌は「アリラン」「懐かしい金剛山」「高麗山河わが愛」を選び、日本の歌は「赤とんぼ」「浜千鳥」「夜明けのうた」の三曲を選んだ。東京国際フォーラムで東京公演を行い、翌日成田空港からソウルに向かった。
ところがソウルに到着し、ホテルでテレビをつけると、ニュース番組に私の姿が映し出された。そしてキャスターが語った。「『夜明けのうた』は、日本の大衆歌謡なので、公演倫理委員会の審議で却下された」と。つまり『夜明けのうた』を歌うことは許可されていないというのだ。
当時、韓国では、日本の大衆歌謡を公の場所で歌うことは禁止されていた。幾度となく開放論議はあったが、その都度、一部の反発で先延ばしになった。しかし就任したばかりの金大中大統領は、段階的開放を決定した。まさに黎明期だった。私が「夜明けのうた」にこだわったのも、日韓の新しい夜明けを表現したい、歓迎したいという気持ちがあったからだ。しかし「夜明けのうた」は戦後につくられた歌だから大衆歌謡だと判断されたらしい。
結果、私は「夜明けのうた」を日本語の歌詞をつけずにメロディーのみで歌った。歌い終えて舞台を降りると涙が溢れた。歌さえも共有できないことが、悲しかった。
このことがきっかけで私は日本と朝鮮半島のあいだでの「禁じられた歌」について調べるようになった。日韓を往復し、ときにはアメリカまで足を延ばし、昔の朝鮮半島の音楽とそれにまつわる出来事を知る生き証人たちへの取材を重ねた。禁じられた歌や、禁止が解かれた歌などの背景を知ったことで、実際に自分がその歌を歌うとき、確実に高いレベルで解釈し、表現できるようになったと思う。

2002 総理官邸 日韓両首脳の前で

二〇〇二年、サッカーワールドカップが日本と韓国の共催で行われ、それを記念してグランドオペラ「春香伝」が日韓両国で公演されることになった。「春香伝」は朝鮮王朝時代の古典小説の最高傑作で、映画やドラマ、演劇などでも演じられている。南北・朝鮮半島で最も愛されているヒロイン春香の役を私が演じることになった。
日韓両国でこの役を務めるのは私がはじめてとなる。誇りに思うと同時に、遠い昔、父母がこの物語を楽しく語ってくれたことを思い出し、記者会見では涙が出そうになった。
さらにワールドカップ閉幕後の七月一日、首相官邸で小泉純一郎総理大臣主催の金大中大統領夫妻歓迎公演が行われ、独唱者に私が選ばれた。もちろん、首相官邸に足を踏み入れるのは初めてのこと。ステージに立つと、日韓両首脳だけでなく、両国の有名女優や歌手、サッカーの監督や選手、FIFA副会長など錚々たる来賓の姿が見える。私はそこで、二つの故郷、韓国と日本の歌を歌った……。在日コリアンだからこそ、これらの歌を自分の歌として歌えるのだ。
高校生のときに音大の受験資格すらなく、門前払いされたことを思うと、この日は“倍返し”した気分だった。
 
そして現在 

ワールドカップ後には、韓流ブーム、そしてK-POPブームが起きた。一方でその揺り戻しとも言える「嫌韓」が起きるなど日韓関係はプラスとマイナスの間を揺れ動いている。冒頭で、日韓は親しみと憎しみのあいだを振り子のように揺れ続けたと書いたが、長い目で見ると、わずかずつでも、その振れ幅は小さくなっているように感じる。
今年、韓国のKBSスペシャルで「海峡のアリア 田月仙 三〇年の記録」という番組が放映された。ここで述べてきたような、私と朝鮮半島の関係をドキュメントにしたものだった。番組終了後、大反響があったようで、私にも多くのメールが送られてきた。
実は韓国人は、在日コリアンのことをほとんど知らないし、帰国者問題などについてもあまり知識がない。番組の中では、私のリサイタルに拉致被害者家族の横田夫妻がいらっしゃったシーンも出てきた。在日コリアンの歴史や日本との関わりついての関心を韓国社会に呼び起こしたとの評価を受けた。
歌を通じて、外交官にもできないような「外交」ができることはうれしい。反日、嫌韓は簡単にはなくならないかもしれないが、私はこれからも地道に日本と韓国、日本と朝鮮半島の架け橋であり続けたい。

【肩書・略歴】
田月仙(チョン・ウォルソン) 声楽家
東京生まれ。桐朋学園大学短期大学部芸術科、同研究科卒業。世界の舞台でオペラやコンサートに出演する一方、日韓文化交流の第一人者として活躍。二期会会員。
著書に『海峡のアリア』『禁じられた歌』『K-POP 遙かなる記憶』。2013年 第14回日韓文化交流基金賞受賞/10月12日 30周年記念リサイタル「歌に生き愛に生き」開催

 

2013/10 中央公論]

 

Chon Wolson officilal Website www.wolson.com